二條泉の所有者は別府を代表する網元の鶴田家で、元々は小さな浴場だったが、1913(大正2)年に改築した。別府駅が開業した1911(明治44)年の地図をみると、二條泉と共に、その東に東二條泉、その北側に2軒の鶴田別宅、さらに北側に鶴田本宅が描かれている。いまの野上本館の外湯である刻の湯付近には鶴島屋、その右隣には山崎(山崎屋?)が記載されている。 なお、1943(昭和18)年1月24日、二條泉付近から出火して、筑紫館、瀬戸屋、山本旅館、えびす屋、山崎屋など旅館7軒と民家など20軒が消失した。(別府今昔による) 野上本館は、火事で焼けたエビス屋(ニ條館の敷地の一部に立地。漢字の屋号は調査中)の焼け跡を利用して、1943(昭和18)年に建てられた。土地は鶴田家の所有であった。 #
by b8spa
| 2011-06-04 19:02
| 別府八湯の歴史
湯株保有者18戸:府内屋太郎兵衛、中津屋勘兵衛、天満屋三郎兵衛、伊豫屋利右衛門、三佐屋七郎右衛門、延岡屋孫之丞、田中屋茂兵衛、杵築屋平兵衛、竹田屋喜右衛門、角屋源左衛門、上角屋太兵衛、豊前屋兵左衛門、植田屋源右衛門、植田屋次郎兵衛、国東屋九左衛門、布屋平之丞、小倉屋勘右衛門、伊勢屋孫左衛門。 新株取得者3戸:竹田屋九兵衛、中津屋清右衛門、角屋六左衛門。 この中では、府内屋がその後日名子旅館として1945年頃まで営業を続けたが、第2次世界大戦後になって、岡本忠夫(大分県弥生町出身)が日名子旅館を買収した。1945(昭和20)年9月買収説と1949(昭和24)年3月買収説がある。1961年9月には、合資会社日名子ホテルに商号変更をした。しかし1985(昭和60)年7月1日に倒産。負債総額は13億7,000万円。いまはマンションとなった。 日名子旅館の開業には2説ある。『大別府人物史』によると1857(安政4)年説、1977年発行の『日本の宿』(朝日新聞社)によると1853(安政元)年説となる。いずれも日名子旅館として開業年であり、その年に屋号を府内屋から日名子旅館に変えたのであろうか。よく分からない。 #
by b8spa
| 2011-06-04 18:59
| 別府八湯の歴史
さらに、伝説によれば、1272(文永9)年には大友頼泰(大友氏3代目)が入湯し、続いて、元寇、つまり1274(文永11)年と81(弘安4)年の二度にわたる元軍の襲来の際に、傷ついた兵士が入湯して傷を癒したと言われている。 明治初期には別府港の築港もあって、楠温泉界隈は旅籠や木賃宿が発達した。しかし明治末期以降には、その地位を竹瓦温泉や不老泉などに奪われてしまった。2005(平成17)年にビルの老朽化とによって、ビルが取り壊され、閉鎖された。 写真は楠温泉が入っていたビル。現在は取り壊されて、2011年3月、ポケットパークとなった。 以下は、2011年1月11日付の大分合同新聞の記事です。 活気取り戻そう 別府楠会館跡地を整備 別府市は、市内楠町の市営楠会館跡地(約400平方メートル)をポケットパークに改修している。2011年3月に完成予定。跡地は、かつて市内で最もにぎわっていたアーケードの一つ「楠銀天街」に面している。市は「この整備を足掛かりに、昔のにぎわいを取り戻すよう知恵を絞りたい」と話している。 旧楠会館(鉄筋コンクリート4階建て)は、1964年の完成。「別府の七大温泉」とも呼ばれて親しまれていた楠温泉や店舗、賃貸アパート、集会所などがあった。老朽化で2005年に取り壊され、その後は空き地となっていた。 07年に市民にアンケートした結果、トイレや休憩所がほしいという要望があり、ポケットパークとして整備することにした。水飲み場、健康遊歩道なども設ける。地区のイベントなどに活用できる広場として、アーケードと一体的に使えるように取り外し可能なフェンスも設置する。総事業費は約2,500万円。 現在の楠銀天街は空き店舗や更地が目立つ。市商工課は「楠温泉の再興も検討したが、近くに寿温泉があることや源泉の確保などで難しい。ポケットパークを地域と街を訪れる人の触れ合いの場とし、空き店舗のシャッターを開ける方策を探りたい」としている。 #
by b8spa
| 2011-06-04 18:44
| 別府八湯の歴史
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by b8spa
| 2011-06-04 18:40
| 別府八湯の歴史
1905(明治38)年3月に調査をした「別府 濱脇町鉱泉ニ関スル取調書類」によると、「穿湯は明治25年頃ニ別府町内ニ始マリ」とある。この調書では、荒金猪六(南町)の1882(明治15)年掘削が一番古く、神澤又市郎(中町)は1902(明治35)年、記事には「以前他ニ穿井セシモ暫次減量センニ依リテ、上記ノモノニ掘リ換エタリ」とある。 1905(明治38)年の書類では、荒金猪六の1882(明治15)年説が正解となるが、神澤又市郎の記事も見逃せない。長年の風評によれば、神澤儀作の1879(明治12)年説が正解かも…。神澤(かんざわ)家は、萬屋という屋号で呉服店を経営していた。神澤家のルーツは、丹波の出で、呉服反物の行商人であった。又市郎の祖父は儀右ヱ門、曽祖父は儀助と言う。 写真の左手が江戸末期から続いた萬屋呉服店の跡。小倉街道の中町にあった。 又市郎は、初代別府市長となったが、炭鉱投資の失敗で、財産を失ったらしい。又市郎の別府市長としての在任期間は1924(大正13)年9月26日から1928(昭和3)年5月28日まで。 #
by b8spa
| 2011-06-04 18:37
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