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上総掘り(歴史)

明治期における
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掘削ブームの背景には、新しい温泉掘削技術の導入があげられよう。明治中期まで、別府の温泉は、自然のままの温泉(自然湧出)か道具で掘った掘湯による湧出のみで、その後、上総掘りと言われる竹のバネを使った人工掘削技術の導入によって、源泉数が急増することになった。上総掘りの時期ついては、1879(明治12)年説、1889(明治22)年説など諸説がある。
写真は上総掘り様子。
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by b8spa | 2011-06-10 23:35 | 別府八湯の歴史

明治期の温泉施設の整備(歴史)

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別府町(1914)『別府町史』によると、1868(明治初)年の温泉場として、別府村には、楠湯、玉湯(新湯)、握石湯(永石温泉)、紙屋湯、風呂湯(不老湯)、佐伯屋湯(甲斐元太郎邸内)、會所湯(日名子益太郎邸内)、田中湯(畦無温泉)、泥湯(現今廃絶)の9ヵ所、浜脇村には、東温泉、西温泉の2ヵ所があったと記載されている。しかし、その詳細は不明である。
その後、1874(明治7)年には、県費によって不老泉、紙屋温泉、浜脇東温泉などが新築された。こうした温泉施設の新築を契機として、その後、共同湯の新築や改築などが相次いだ。具体的には、新規開業では、1892(明治25)年の霊潮泉、1899(明治32)年の寿温泉、1909(明治42)年の柳温泉など、改築(新築を含む)では、1902(明治35)年の不老泉、同年の竹瓦温泉などで、明治中期以降、共同湯を中心に温泉集落の整備が進むことになった。
絵葉書は霊潮泉。
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by b8spa | 2011-06-10 23:33 | 別府八湯の歴史

明治末期の竹瓦温泉界隈の様子(歴史)

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図は竹瓦温泉界隈の様子を描いた地図である。竹瓦温泉そして二條泉界隈で旅館の成立がみられる。海岸通りはいまだ開通しておらず、したがって、旅館の進出もわずかである。しかし、旅館の別館としての別荘が作られており、こうした別荘形式の別館が以後増えることになった。
1904(明治37)年から1905年までの日露戦争後、別府に新しい発展の芽をもたらした。福岡連隊が負傷者の療養の場を別府に求め、不老町の不老園などの旅館を借り上げ、負傷兵を送り込んだのである。戦後の好景気もあって、別府の名声は高まり、急速に発展をみることになった。

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by b8spa | 2011-06-10 23:30 | 別府八湯の歴史

明治末期の別府市街地(歴史)

図はa0212770_23274327.jpg明治末期における別府市街地の形態と旅館の分布を示したものである。集落は、南北に伸びる旧街道(小倉街道)沿いと海岸に近い浜堤防上に展開し、その他は水田が一面に広がっていた。別府温泉の旅館は別府港に近接した流川下流域と海岸部、共同湯周辺に立地している。浜脇温泉の旅館は、東温泉、西温泉を取り巻くように立地しており、海岸部への進出は見られない。
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by b8spa | 2011-06-10 23:27 | 別府八湯の歴史

明治末期の別府八湯(歴史)

a0212770_1155091.jpg図は明治末期の別府温泉郷の位置図である。別府、浜脇、亀川はすでに温泉集落を形成し、柴石、明礬、鉄輪、堀田、観海寺には温泉のマークが記載されている。地図に記載された主な地名をみると、地獄は血の池地獄、海地獄、坊主地獄、神社は竈八幡神社、火男火女神社、八幡朝見神社、その他には鶴見岳、大平山、実相寺山、乙原滝、鮎返滝、境川、志高池、別府湾、農学校などがある。八湯以外の地名としては、平田、北石垣、南石垣があって、亀川には、新湯の温泉マークがプロットされている。空白の部分は水田と思われるが、明治末期の別府温泉郷は、別府と浜脇を除いて、それぞれ独立した温泉地を形成したのである。
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by b8spa | 2011-06-10 01:15 | 別府八湯の歴史

市街諸家商(歴史)

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佐藤蔵太郎(1888)『別府温泉記』によると、同誌の中に別府村における市街諸家商の一覧がある。この一覧表には、1888年(明治21)現在、59軒の商家が掲載されている。
町別にみると、野口3軒、北町7軒、中町8軒、南町3軒、流川21軒、楠濱16軒、中濱1軒を示し、整理すると、小倉街道21軒、流川・楠浜38軒となって、すでに流川から海岸部にかけて商家が数多く分布していることが分かる。なお、本町と言う地名は無いが、屋号から推計すると、本町は北町に含まれていると思われる。
旅籠(入湯宿を含む)は24軒が記載されている。その経営形態は、旅籠屋(入湯宿)専業7軒、兼業17軒となる。兼業17軒を具体的にみると、貸座敷兼業8軒、船問屋兼業7軒など、幅広い構成をなす。従って、旅館業の専業はあまり多くない。貸座敷との兼業、船問屋との兼業が目立って多い。つまり旅館業の専業化は後のことである。経営者の氏名をみると、先住者、素封家、外来者の名前が散見される。
旅籠の分布を町別にみると、小倉街道8軒、流川・楠濱16軒を示し、流川から楠浜にかけて、集積していることが分かる。なお、邸内の内湯所有者としては、米屋(堀禮蔵)、国東屋(安部丈蔵)、佐伯屋(甲斐源太郎)、中津屋(國東賢治)、天満屋(安部三郎)、府内屋(日名子太郎)、煙草屋(荒金猪六)、筑前屋(井出安次郎)、まる賀(江上絹)、阿川や(佐藤新市)、住吉や(永井栄三郎)、新湯前(恩田友十郎)、若松や(松尾亀四郎)の13軒を数える。
この内訳は旅籠10軒、貸座席3軒(まる賀、阿川や、住吉や)となる。13軒の内湯所有者を町別にみると、北町3軒、中町3軒、南町1軒、流川6軒となり、小倉街道沿いと流川界隈が半々を占めていることが分かる。流川下流域や楠浜では、「湯場に接す」とする商家が多く、まだ源泉の掘削が進まず、入湯客は楠湯や新湯そして潮湯を外湯として利用していたことを示すものである。小倉街道の内湯所有者7軒は旅籠(入湯宿を含む)であり、流川の6軒の内訳は、旅籠3軒、貸座敷3軒となる。
また流川下流域から楠浜にかけて、貸座席が広く発達しているが、貸座敷は2軒が専業で、兼業は5軒となる。旅籠との兼業の8軒を含めると、15軒の貸座敷が成立している。町別では、流川9軒、楠濱6軒となり、小倉街道沿いには1軒も営業をしていない。こうしたことから、名残橋付近の花柳界としての繁栄を読み取れよう。
絵葉書は小倉街道の様子。
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by b8spa | 2011-06-10 01:13 | 別府八湯の歴史

明治初期の旅館業(歴史)

a0212770_1111827.jpg別府港の築港に対して、別府の多くの素封家や有力者がかり出された。当時の別府の素封家や有力者は、いずれも小倉街道沿い、そして石垣村に近い野口、浜脇村に近い松原などに在住していた。別府港の完成によって、有力者の一部は、旅館経営に参入することになった。海運業の発展を見越して、近在からの有力者及び先住者が旅館経営に参入したのである。
大分県(1885)『豊後国速見郡村誌』は、1877年(明治10)前後の別府の様子を記した貴重な文献である。地区別の旅館数は別府40軒、浜脇30軒、亀川10軒(野田2軒、亀川8軒)、鉄輪34軒、鶴見10軒(明礬10軒)、南立石18軒(観海寺8軒、堀田10軒)で、現在の別府温泉郷では142軒を数える。同誌によれば、別府の貸席数は10軒、浜脇は4軒を示している。
絵葉書は日名子旅館。
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by b8spa | 2011-06-10 01:11 | 別府八湯の歴史

別大電車(歴史)

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海の交通に対して、陸上交通の関係では、豊州電気鉄道(別大電車)が1900(明治33)年に開通した。続いて1911(明治44)年には、現在のJR日豊線の別府駅が開業し、北九州方面との利便性が一段と増加して、炭鉱関係者などが観光客あるいは別荘の所有者として数多く別府を訪れようになった。こうした背景には、1894(明治27)年~1895年の日清戦争、1904(明治37)年~1905年の日露戦争による経済の好況もあった。
絵葉書は浜脇海岸を走る別大電車。
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by b8spa | 2011-06-10 01:08 | 別府八湯の歴史

別府港の築港(歴史)

a0212770_154339.jpg明治維新となって、別府温泉郷は、顕著な変容をとげることになった。日田県知事松方正義は、別府の視察を行い、新別府港の必要性を説いた。その後、1871(明治4)年5月30日、県費によって別府湾に面する流川河口付近の楠浜で近代的な別府港が竣工し、海路による交通が一段と利便性を増した。これは1870(明治3)年2月23日に起工したもので、工費は4万円を数えた。
港湾整備に関する功労者の氏名をみると、別府の有力者の大半が含まれていると推定されるが、旅館経営者として、次の氏名が指摘できよう。すなわち、府内屋・日名子太郎兵衛、米屋・堀清左衛門、紀野屋・金居與助、讃岐屋・日名子長左衛門、萬屋・神澤儀助、若松屋・松尾彦七などである。
1873(明治6)年5月30日には、大阪開商社の益丸が入港し、1ヵ月に1回寄港することになった。益丸は西洋型木造蒸気船(18トン)で、別府-大阪間を30日間要したと言われている。その際、別府では、船問屋を開業する者が登場した。別府村有数の素封家である府内屋(日名子旅館)の日名子太郎である。その後、1884(明治17)年5月に大阪商船(関西汽船の前身)、1885(明治18)年8月に宇和島運輸など、大手の海運会社が別府航路に参入し、貨物や乗客の取り扱いをすることになった。その結果、大阪、四国方面との結びつきが強化された。
その後、大阪商船は、1916(大正5)年、木造桟橋の建設によって汽船の発着を開始し、1920(大正9)年には、待合所やコンクリート固定棧橋を建設し、毎日の出航体制となった。さらに1929(昭和4)年には、菫丸を就航させて、昼夜2便体制を確立したのである。写真は松方正義。
※松方正義(1835(天保6)年2月25日~1924(大正13)年7月2日)、鹿児島生まれ。政治家、財政指導者、元老。父は鹿児島藩士。日田県知事、租税頭、大蔵大輔などを経て、1880(明治13)年、内務卿となる。1881年大隈重信が政変で追放されると、参議兼大蔵卿に就任し、緊縮財政を実施した。第1次伊藤、黒田、第1次山県、第2次伊藤、第2次山県各内閣の蔵相。この間、首相として2度組閣し、蔵相を兼任した。のち日本赤十字社社長、枢密顧問官、議定官、貴族院侯爵議員、内大臣を歴任。日本銀行の創立、金本位制度の確立など、財政指導者として功績を残す。元老としても重きをなした。
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by b8spa | 2011-06-10 01:06 | 別府八湯の歴史

花柳界としての名残橋界隈(歴史)

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江戸時代末期になると、流川の名残橋付近に旅館や貸座席などが登場したと推定できよう。1849(嘉永2)年には村用金で別府港を改築という記録があり、港町としての体裁を整えつつあった。流川は海岸から名残橋まで船が遡上しており、橋付近は船着場として機能していたのである。名残橋付近から楠湯付近かけての花柳街の成立は浜脇ですでに繁盛していた貸座席の影響が大きいと思われる。現在の楠銀天街の流川寄りに共同湯としての新湯が作られ、芸者衆が入湯していたと伝えられている。名残橋付近には柳の木が多く植えられ、情緒溢れる雰囲気を醸し出していたと想定できよう。
最初にどの旅館が進出したのか事実関係は不明だが、1865(慶応元)年1月に討幕運動に活躍した井上馨が若亀旅館(後の若松屋)に逗留し、傷を癒すために楠温泉に入湯したと言う記録が残されている。若亀は新湯の前、すなわち現在の流川通りからソルパセオ銀座の入口付近にかけて立地していたが、昭和初期の銀座通りの開通で取り壊されてしまった。
『別府今昔』(是永勉1966)によれば、松尾家は兵庫県加古川地方の一国一城の主で、江戸中期の後半に城を失って長男が別府に逃れ、弟が加古川に潜伏したと言われている。長男の子孫は別府で旅館と回槽店を経営し、落ち延びる際にかなりの家来を連れてきたと言われている。
参考文献(是永勉 (1966):『別府今昔』大分合同新聞社)
写真は菊家流川店の前にある名残橋の碑(レプリカ)。本物は某所で保管されている。
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by b8spa | 2011-06-10 01:01 | 別府八湯の歴史