カテゴリ:別府八湯の歴史( 50 )

高倉庄屋(歴史)

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堀家が別府村の庄屋職を退いた後は、小坂村庄屋の第8世高倉曽右衛門が兼務し、後に正式な庄屋となった。1889(明治22)年に別府村の初代村長、1893(明治26)年に別府町の初代町長をした高倉駒太(1859(安政6)年1月5日―1932(昭和7)年4月13日)は、第12世織作の妻ナジの弟で、駒太は織作の養子となった。屋敷は流川4丁目の流川通りに面した南にあった。
しかし駒太には子供はなく、分家の形となった。初代町長を辞めた後は、商売(明治中頃からタバコと和洋酒販売を始めた)に専念したが、1902(明治35)年に商売を止めて、屋敷を手放した。その跡を購入したのが、豊前の資産家・江上孝純(元県議)だ。愛人キヌに料亭「まるか」を経営させた。徳田秋声も1903(明治36)年2月末の来別中に出入りした。1912(大正元)年、その跡を藤岡弥八(藤岡商会・香川県出身)が購入。建物は120年の歴史があった。屋敷が広すぎて流川通りが8間道路となった1917(大正6)年に分譲。1919(大正8)年に角地で家を建てて、「いなりや」(はきものや)に賃貸。2代目は藤岡秀雄。(別府今昔(142~143頁)による)
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by b8spa | 2011-06-05 20:16 | 別府八湯の歴史

二條泉(歴史)

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二條泉という名称は、現在、ホテルニューツルタの泉源として残されているが、二條泉という温泉施設は、歴史的には竹瓦温泉よりも古いかもしれない。場所的には、野上本館に向かって、左隣の駐車場となる。名称のルーツは、1840(天保11)年又は1843(天保13)年に来別した二條義実(よしざね)である。(来別の年には諸説がある)。義実は二條関白家の嫡流で、勤皇運動のため、当初、浜脇西町に潜伏した。その後、別府の二條泉に住む訳だが、当時、この場所は北浜の場末であった。義実がこの温泉に入湯したことから二條泉と呼ばれるようなったとか。二條泉は1階が湯殿、2階が居間で、側室の萩原カメと住んだと言う。その後、観海寺坂本の溝口次郎八宅に移り住んだと言うが、事実はよく分からない。(観海寺温泉風土記による)。そんな義実だが、1858(安政5)年6月22日、京へ向かう途中、萩で毒殺された。
二條泉の所有者は別府を代表する網元の鶴田家で、元々は小さな浴場だったが、1913(大正2)年に改築した。別府駅が開業した1911(明治44)年の地図をみると、二條泉と共に、その東に東二條泉、その北側に2軒の鶴田別宅、さらに北側に鶴田本宅が描かれている。いまの野上本館の外湯である刻の湯付近には鶴島屋、その右隣には山崎(山崎屋?)が記載されている。
なお、1943(昭和18)年1月24日、二條泉付近から出火して、筑紫館、瀬戸屋、山本旅館、えびす屋、山崎屋など旅館7軒と民家など20軒が消失した。(別府今昔による)
野上本館は、火事で焼けたエビス屋(ニ條館の敷地の一部に立地。漢字の屋号は調査中)の焼け跡を利用して、1943(昭和18)年に建てられた。土地は鶴田家の所有であった。
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by b8spa | 2011-06-04 19:02 | 別府八湯の歴史

日名子ホテル(歴史)

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宿泊施設として別府で一番古い旅館はどこであろう。1804年~1818年(文化年間)において、別府村では21軒の宿が存在したと言われているが、その明確な根拠はない。(湯株とは、幕府より宿泊営業許可を受けた宿)。
湯株保有者18戸:府内屋太郎兵衛、中津屋勘兵衛、天満屋三郎兵衛、伊豫屋利右衛門、三佐屋七郎右衛門、延岡屋孫之丞、田中屋茂兵衛、杵築屋平兵衛、竹田屋喜右衛門、角屋源左衛門、上角屋太兵衛、豊前屋兵左衛門、植田屋源右衛門、植田屋次郎兵衛、国東屋九左衛門、布屋平之丞、小倉屋勘右衛門、伊勢屋孫左衛門。
新株取得者3戸:竹田屋九兵衛、中津屋清右衛門、角屋六左衛門。
この中では、府内屋がその後日名子旅館として1945年頃まで営業を続けたが、第2次世界大戦後になって、岡本忠夫(大分県弥生町出身)が日名子旅館を買収した。1945(昭和20)年9月買収説と1949(昭和24)年3月買収説がある。1961年9月には、合資会社日名子ホテルに商号変更をした。しかし1985(昭和60)年7月1日に倒産。負債総額は13億7,000万円。いまはマンションとなった。
日名子旅館の開業には2説ある。『大別府人物史』によると1857(安政4)年説、1977年発行の『日本の宿』(朝日新聞社)によると1853(安政元)年説となる。いずれも日名子旅館として開業年であり、その年に屋号を府内屋から日名子旅館に変えたのであろうか。よく分からない。
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by b8spa | 2011-06-04 18:59 | 別府八湯の歴史

楠温泉(歴史)

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楠温泉は、昔は楠湯と言われ、共同湯としての歴史は別府で一番古い。1865(慶応元)年1月、井上門多(もんた)(馨)が若松屋(松尾彦七経営)に逗留し、楠湯に浸かって、傷を癒したという記録が残されている。
さらに、伝説によれば、1272(文永9)年には大友頼泰(大友氏3代目)が入湯し、続いて、元寇、つまり1274(文永11)年と81(弘安4)年の二度にわたる元軍の襲来の際に、傷ついた兵士が入湯して傷を癒したと言われている。
明治初期には別府港の築港もあって、楠温泉界隈は旅籠や木賃宿が発達した。しかし明治末期以降には、その地位を竹瓦温泉や不老泉などに奪われてしまった。2005(平成17)年にビルの老朽化とによって、ビルが取り壊され、閉鎖された。
写真は楠温泉が入っていたビル。現在は取り壊されて、2011年3月、ポケットパークとなった。

以下は、2011年1月11日付の大分合同新聞の記事です。

活気取り戻そう 別府楠会館跡地を整備
別府市は、市内楠町の市営楠会館跡地(約400平方メートル)をポケットパークに改修している。2011年3月に完成予定。跡地は、かつて市内で最もにぎわっていたアーケードの一つ「楠銀天街」に面している。市は「この整備を足掛かりに、昔のにぎわいを取り戻すよう知恵を絞りたい」と話している。
旧楠会館(鉄筋コンクリート4階建て)は、1964年の完成。「別府の七大温泉」とも呼ばれて親しまれていた楠温泉や店舗、賃貸アパート、集会所などがあった。老朽化で2005年に取り壊され、その後は空き地となっていた。
07年に市民にアンケートした結果、トイレや休憩所がほしいという要望があり、ポケットパークとして整備することにした。水飲み場、健康遊歩道なども設ける。地区のイベントなどに活用できる広場として、アーケードと一体的に使えるように取り外し可能なフェンスも設置する。総事業費は約2,500万円。
現在の楠銀天街は空き店舗や更地が目立つ。市商工課は「楠温泉の再興も検討したが、近くに寿温泉があることや源泉の確保などで難しい。ポケットパークを地域と街を訪れる人の触れ合いの場とし、空き店舗のシャッターを開ける方策を探りたい」としている。
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by b8spa | 2011-06-04 18:44 | 別府八湯の歴史

西法寺(歴史)

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西法寺は、旧国道(小倉街道)である西法寺通りに面する名刹だ。釈了(しゃく りょうい)が、戦国時代の1507(永正4)年に開基したと言われる。2007年で500年になる計算だ。境内にある松尾芭蕉の句碑「古池や…」は、1845(弘化2)年に建立された。
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by b8spa | 2011-06-04 18:40 | 別府八湯の歴史

萬屋(歴史)

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別府の温泉人工掘削(突き湯)第1号は誰なのか、そして、時期はいつなのか、諸説がある。時期については、1879(明治12)年説、1889(明治22)年説がある。人物は、神澤又市郎、神澤儀作(又市郎の父)の説がある。又市郎は1864(元治元)年11月20日、儀作は1828(文政11)年3月25日生まれとなる。となると、1879(明治12)年現在の年齢は、それぞれ15歳、51歳、1889(明治22)年現在では、25歳、61歳となる。なお、父の儀作は1904(明治37)年1月10日に死亡し、又市郎は1900(明治34)年5月3日に家督を相続した。
1905(明治38)年3月に調査をした「別府 濱脇町鉱泉ニ関スル取調書類」によると、「穿湯は明治25年頃ニ別府町内ニ始マリ」とある。この調書では、荒金猪六(南町)の1882(明治15)年掘削が一番古く、神澤又市郎(中町)は1902(明治35)年、記事には「以前他ニ穿井セシモ暫次減量センニ依リテ、上記ノモノニ掘リ換エタリ」とある。
1905(明治38)年の書類では、荒金猪六の1882(明治15)年説が正解となるが、神澤又市郎の記事も見逃せない。長年の風評によれば、神澤儀作の1879(明治12)年説が正解かも…。神澤(かんざわ)家は、萬屋という屋号で呉服店を経営していた。神澤家のルーツは、丹波の出で、呉服反物の行商人であった。又市郎の祖父は儀右ヱ門、曽祖父は儀助と言う。
写真の左手が江戸末期から続いた萬屋呉服店の跡。小倉街道の中町にあった。
又市郎は、初代別府市長となったが、炭鉱投資の失敗で、財産を失ったらしい。又市郎の別府市長としての在任期間は1924(大正13)年9月26日から1928(昭和3)年5月28日まで。
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by b8spa | 2011-06-04 18:37 | 別府八湯の歴史

銀座裏(歴史)

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別府の飲み屋街の老舗通りは銀座裏と言われている。この銀座裏が別府では、江戸時代から続く通りとは、あまり知られていない。
別府の豪商・煙草屋主人の荒金義八郎は1862(文久2)年に『所用留』を書き記し、「流川下流一帯見取り図」を作成した。この地図には、流川、海門寺みちが描かれている。海門寺みちは、流川から海門寺に至る通りで、途中、妙見山と言われる森があった。昭和戦前までは、寂しげな場所だったらしい。
海門寺は、伝承によれば、以前は別府湾に浮かんだ久光(ひさみつ)島にあって、久光山海門寺と言われた。しかし、1597年(慶長2)7月、鶴見岳の土石流に押し流されて島と共に海中に没したという。その後、1692(元禄5)年、現在地で再興されたと伝えられている。
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by b8spa | 2011-06-04 18:30 | 別府八湯の歴史

流川通り(歴史)

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別府の流川通りは、1917(大正6)年に暗渠となって、8間道路として拡幅された。と言っても、暗渠となった流川通りは、本町橋(現在の流川4丁目と5丁目の境)から下流方面である。流川の水源は2つあって、1つは九日天温泉方面(北の山側)、それが田の湯、不老泉と流れ、もう1つは仮屋(かりや)方面(南の山側)が上流であった。この2つの流れが本町橋の少し上で合流し、流川となった。元の食事処なかはる(現在は、はすみ)の前の通りが、かつての流川の1つで、1938(昭和13)年に暗渠となった。道路は川の右岸にあったとのこと。
この川の水源は、江戸末期の地図を見ると、朝見川である。ということは、農業用水、生活用水としての水を朝見川から取り込んだのであろうか。
秋葉神社の北を通る現在の旧秋葉通り(旧称は「どい」)にも川が記されている。これも水源は朝見川である。
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by b8spa | 2011-06-04 18:24 | 別府八湯の歴史

本町橋(歴史)

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江戸時代の別府の主要街道は、小倉街道である。現在の西法寺通りで、北から北町、本町、中町、南町が形成されていた。小倉街道が流川を超える際の橋の名称は本町橋で、この付近が別府の中心と言われる。四つ角には旅籠が成立し、中町の海側には高札場があった。現在のマルショクの駐車場である。さらには、高札場の湯もあった。
四つ角に位置する旅籠の屋号は、1902(明治35)年10月発行の『大分縣案内』によると、筑前屋(北の東辻)、佐伯屋(北の西辻)、天満屋(南の東辻)、中津屋(南の西辻)などで、この4軒の内、筑前屋を除く3軒が1804~1818年(文化年間)の屋号のままであり、当時から立地していたと推定できよう。なお、中津屋の南側には日名子(府内屋)があった。
1810(文化7)年2月、伊能忠敬が来別し、高札場に測量標を設置した。現在、記念碑が流川4丁目の道路沿いに建てられている。
なお、本陣は別府庄屋高倉策左衛門宅(現在の流川4丁目)、脇本陣はたばこ屋荒金市郎兵衛宅(南町)とのこと。
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by b8spa | 2011-06-04 18:20 | 別府八湯の歴史

名残橋(歴史)

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名残橋は流川下流に架設された橋。名残橋は、現在の地番でいうと、流川3丁目の菊屋別府本店ビルの前にあった橋だ。現在、菊屋の前には、親柱のレプリカ「名残橋」が置かれている。流川通りは1917(大正6)年に8間道路に拡幅されて暗渠化。
この橋の架設年代は不明だが、おそらく江戸末期と推定できよう。当時の流川は、左岸に道路が走り、別府温泉で一番古いと言われる楠温泉へ行くために名残橋が架設されたと想像する。その理由は、別府の豪商・煙草屋主人の荒金義八郎が1862(文久2)年に書き記した『所用留』の「流川下流一帯見取り図」に記載されていないからだ。この地図には、下流に一箇所だけ橋が記載されている。場所は、現在の寿温泉付近である。
江戸末期の流川は、別府湾から名残橋付近まで船が遡上し、船溜りがあったらしい。川沿いには柳が植えられ、貸座席や旅籠などが成立し、花柳界の様相を呈していた。また名残橋の海寄りには新湯が開かれ、芸者衆が入浴したと言われている。温泉は引湯で、現在の流川4丁目にあった高札場の湯からの引湯である。この新湯はなぜ新湯というのか、分からない。高札場の湯に対する新湯なのか、楠温泉に対する新湯なのか、URAは楠温泉に対する新湯と想像する。この新湯もおそらく流川の拡幅の際に消えたと思う。
1871(明治4)年の別府港の築港で、流川の下流は船溜りとしての機能を失った。そのためか、明治末期以降の市区改正(耕地整理)の進行と共に、道路の整備が進み、海寄りに、すじかい(筋交)橋(現在の寿温泉の玄関先当たり)、柳橋などが架設された。
ちなみに、流川の流路は、現在、白水館の裏手に残されており、往時の流川の様子を見ることが出来る。
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by b8spa | 2011-06-04 18:17 | 別府八湯の歴史