カテゴリ:別府八湯の歴史( 50 )

別府温泉郷のルーツ(歴史)

a0212770_0315934.jpg
別府温泉郷のルーツは風土記に求めることができよう。すなわち8世紀に編纂された豊後風土記の速見郡の条に赤湯泉、玖倍理湯(くべりゆ)の井の記載がある。つまり赤湯泉とは現在の血の池地獄のことで、地獄の存在を指摘している。玖倍理湯(くべりゆ)はくすぶるを意味し、場所は特定できないが、湯煙のくすぶるさまを表現しており、いずれにしても鉄輪温泉の状況を記載していると推定できる。
※絵葉書は血の池地獄。参考文献(大分県地方史研究会(1957):『別府の歴史』大分県地方史研究会)
[PR]
by b8spa | 2011-06-10 00:33 | 別府八湯の歴史

温泉番付(歴史)

a0212770_2051466.jpg江戸後期の温泉番付によると、浜脇は西前頭3枚目に位置し、瘡毒に吉、別府は前頭6枚目に位置し、眼病に吉とある。東の大関は上州草津の湯、関脇は野州那須の湯、小結諏訪の湯、前頭は豆州足の湯、以下、陸奥嶽の湯、上州伊香保の湯、仙台成子の湯、最上高湯の泉、秋田河内原の湯と続く。これに対して、西の大関は播州有馬の湯、関脇但州木の崎の湯、小結豫州どふごの湯、前頭加州山中の湯、以下、肥後阿蘇の湯、豊後濱脇の湯、肥前温泉の湯、薩摩霧島の湯、豊後別府の湯、肥後山鹿の湯となる(以下省略)。
なお、行司は熊野本宮之湯、伊豆熱海之湯、津軽大鰐之湯、差添人は上州さわとの湯、勧進元は紀伊熊野新宮之湯である。諸国温泉功能鑑とあるように、温泉の効能(現在の適応症)を主としたランキングと思われるが、浜脇は西前頭3枚目、別府は同6枚目として登場している。九州の温泉ではこの他に肥後阿蘇(西前頭2枚目)、肥前温泉の湯(西前頭4枚目)、肥後山鹿の湯(西前頭7枚目)だけで、特に浜脇温泉の地位が高い。浜脇は漁港、朝見神社の門前町として栄え、花柳街(貸席)などもあって格は別府よりも上であった。
[PR]
by b8spa | 2011-06-05 20:51 | 別府八湯の歴史

別府港(歴史)

a0212770_2042288.jpg
明治維新となって別府温泉郷は顕著な変容をとげることになった。日田県知事松方正義は別府の視察を行い、新別府港の必要性を説いた。1871(明治4)年5月、4万円もの県費をかけて別府湾に面する流川河口付近の楠浜で近代的な別府港が竣工し、海路による交通が一段と利便性を増した。港湾整備に関しては、別府の有力者がかり出された。具体的な屋号と氏名は、府内屋・日名子太郎兵衛、米屋・堀清左衛門、紀野屋・金居與助、讃岐屋・日名子長左衛門、萬屋・神澤儀助、若松屋・松尾彦七などである。
写真は、ゆめタウンの開発前のもの。
[PR]
by b8spa | 2011-06-05 20:42 | 別府八湯の歴史

若木屋(歴史)

a0212770_20383210.jpg
若木屋は、別府の北浜を代表する網元と言われる。明治から大正にかけて、兵網の鶴田家と並ぶ網元で、竹瓦温泉の場所はほとんど若木屋のイリコ小屋だったとのこと。
若木屋の家系は、武士の出で、西国各地を転々とした後、豊後白木浦(現在の別大国道の白木)に上陸して大友家に仕え、その後、別府の港町で網元を始めたと言う。先祖の佐藤勘左衛門尉藤原勝信という人は、大友の武将の1人として朝鮮出兵で軍功があり、1595(文録4)年1月2日、豊臣秀吉から感謝状をもらったとか。網元としての船名は若木丸。 (別府今昔による)
[PR]
by b8spa | 2011-06-05 20:38 | 別府八湯の歴史

秋葉神社(歴史)

a0212770_20354980.jpg
秋葉神社の北側を通る路地は「どい」と呼ばれ、江戸時代から続く旧秋葉通りである。この付近は交通の要地で、馬宿もあったとか。角地に建つタナベヤこと西原家(元は呉服荒物店)は1877(明治10)年に進出したとか。その前は松原で居を構えていたらしい。
[PR]
by b8spa | 2011-06-05 20:36 | 別府八湯の歴史

秋葉神社(歴史)

a0212770_20322484.jpg
秋葉神社の勧請は、1725(享保10)年とか1764(明和元)年とのこと。しかし案内版には1725(享保10)年とある。境内には1732(享保17)年奉納の手水鉢が残されている。
[PR]
by b8spa | 2011-06-05 20:32 | 別府八湯の歴史

木屋(歴史)

a0212770_20293855.jpg
紙屋温泉の近く、南町の旧国道沿いのたばこ店・河村家の屋号は木屋と言う。何と1700(元禄13)年に本家の小松屋から分家したとのこと。そういえば、屋敷は短冊状で細長い。旧家の証だ。
[PR]
by b8spa | 2011-06-05 20:29 | 別府八湯の歴史

小松屋(歴史)

a0212770_20245651.jpg
小松屋は、たばこ屋同様に南町で門を構えた別府を代表する素封家だ。江戸時代に大阪から来別し、祖先は河村水軍とのこと。七島イの売買で財をなし、全盛期には堀田でも広大な土地を所有したとか。しかし昭和初期の恐慌で財産の大半を失った。
歌人である丸山待子(1893-1941年)は、29歳で夫と死別後、実家である小松屋へ戻り、1928(昭和3)年に浅利良道などと共に「大分歌人」を創刊した。野口雨情、与謝野晶子なども訪れ、小松屋は文化サロンとして機能した。
[PR]
by b8spa | 2011-06-05 20:26 | 別府八湯の歴史

たばこ屋(歴史)

a0212770_20225083.jpg
別府村の豪商と言えば、たばこ屋 (漢字はワープロにないので省略)だ。南町の現在の児童館一帯に広大な屋敷を構え、本宅には10畳以上の座敷が14室、書院3室、茶亭2室など、部屋の総数80室を数えたという。
たばこ屋の全盛時代は別府村の田畑の内、上等な地所のほとんどを所有し、稲作のほか七島イ、生姜畑など9割までを支配したという。しかし1923(大正12)年に倒産。(別府今昔による)
土地所有の話は、よく聞く話で、それくらい広大な土地を所有していたと言う例え話であろう。
たばこ屋の土地は、愛媛県からやってきた菊池家が所有したとのことだが、未確定情報である。
[PR]
by b8spa | 2011-06-05 20:23 | 別府八湯の歴史

妙見川(歴史)

a0212770_20192060.jpg
別府は北から境川、流川(名残川)、源左衛門尻川(永石川)、朝見川など河川が多い。この中で、本格的な自然河川は境川と朝見川であろう。他にも用水程度の小川が実に多い。別府は荘園という開墾地であり、農業用水として開かれたと思われる。こうした小川だが、残念ながら名称が無い。残されていないのかも知れない。橋の名前もそうだ。流川では、本町橋、名残橋は判明している。朝見川の橋名はすべて判明しているが、住吉橋の場所だけが明確ではない。
ところで、二條泉の南を流れている小川の名前が地図に出ていた。妙見川である。上流は田の湯方面で、妙見山の南側を流れて、別府湾に注いでいた。現在では、野上本館と右隣の宴会場の建物の間を流れている。もちろん暗渠である。
[PR]
by b8spa | 2011-06-05 20:19 | 別府八湯の歴史