カテゴリ:別府八湯の歴史( 50 )

所用留(歴史)

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『所用留』(荒金義八郎1862)によって、江戸末期、つまり文政年間(1818~1830年)の別府村の様子を把握してみよう。別府の豪商・煙草屋主人の荒金義八郎は1862(文久2)年に『所用留』を書き記し、「流川下流一帯見取り図」を作成した
見取り図の図中左下には次のような文が掲載されている。「〇四拾四五年前は此通は両方共に家一軒もなし ただ今煙草屋七島田其下沼汐入共に大造家造り 通濱迄両側共に町に相成候。文久二年戌年認置もの也」。(煙草屋の煙草は、草冠に快の字)。この図によると流川の下流域は文政年間(1818~1830年)に家屋が建ち始めた。それまでは左岸には水田、海門寺みちなど、右岸には煙草屋の七島田、葦の生える湿地などがあった。
流川の上流(現在の4丁目)の左岸をみると、「竹田屋六右衛門」の屋敷があり、「是より東に家なし」と記載している。つまり現在の流川2丁目から1丁目までに家屋は存在せず、海門寺みち(現在の銀座裏通り)が通るのみで、その間には水田が分布している。海門寺みちの東(海側)には「此所四右衛門居蔵建候得共消失」と書かれている。
右岸を見ると竹田屋の前に「小坂曽右衛門建てる御庄屋高倉氏」の屋敷があり、「是より東家なし」と記載。下流に向けては「此辺たばこ屋七島田也」とあり、七島田が広がっていた。海門寺みちの入り口には薬師堂があり、その先は流川道から分岐した中浜道で、楠温泉に繋がっている。薬師堂から楠温泉に至る一帯には「府内屋太郎兵衛村より買取埋め上」の土地があった。また「此邊不残小芦原沼汐入」と、大潮や高潮の時は、海水の浸入があったことを示している。
従って所用留に書かれた「竹田屋」は屋号からみて湯株21軒の1軒であり、これで21軒中5軒の場所が特定したことになる。
参考文献(入江秀利(2001):『天領横灘ものがたり-別府の江戸時代-』おおくま書店)
図は荒金義八郎が所用留に描いた図。
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by b8spa | 2011-06-10 00:58 | 別府八湯の歴史

湯株の分布(歴史)

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次に湯株と称される旅館の所在だが、地域的な所在の特定は困難な作業である。しかし各種文献を元に推察するところ、立地した場所は小倉街道筋(現在の西法寺通り一帯)と推定する。当時の立地状況を具体的に示す資料は現在のところ存在しないが、『大分縣案内』(第九回西南区実業大会1902)によると、次のような記載がある。
「(前略)西法寺より南に向って直進すれば十数歩にして右側に米屋あり(中略)尚ほ少しく進めば右角に佐伯屋左角に筑前屋あり木賃兼業の旅館なり十字街道を右に折るれば不老町に出ず筑前屋沿うて左折すれば最も殷賑なる流川町なり貸席兼料理屋等多く(中略)百歩ばかり右傍に旅館日出屋あり(以下略)更に百歩ばかりして新湯あり(中略)湯の前に旅館若亀あり(以下略)」。
さらに「(前略)右角に中津屋左角に天満屋あり(中略)中津屋南隣の三層楼は即ち別府第一の客舎日名子旅館にして(以下略)」とある。つまり本町橋(流川と小倉街道の交差点)の4つ辻には旅館が存在した。北の西(山側)辻には佐伯屋、北の東辻(海側)には筑前屋、南の西辻(山側)には中津屋、南の東辻(海側)には天満屋(海側)が分布していることが分かる。この4軒の内筑前屋を除く3軒が文化年間の屋号のままであり、当時から立地していたと推定できよう。なお中津屋の南に位置する日名子は文化年間では府内屋の屋号であり、『大分縣案内』からは4軒の場所が特定できよう。
参考文献 第九回西南区実業大会(1902):『大分縣案内』菁莪堂書店)
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by b8spa | 2011-06-10 00:56 | 別府八湯の歴史

湯株の解釈(歴史)

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ところで湯株の解釈だが諸説がある。
具体的には、
(1)幕府より湯株と称する宿泊営業許可を受けた宿
(2)温泉及び温泉権を保有するもの
(3)温泉及び温泉権を保有し、宿泊営業許可を受けた宿
(4)内湯を持つ湯宿の株仲間
などである。
筆者は(1)の立場をとるものである。その理由の1つは元禄年間の「宅中に温泉10ヶ所あり、何れもきよし、庄屋の宅中にあるは殊にいさぎよし」の記述、2つ目の理由は明治初期の温泉場に関する記述である。具体的には別府村の9ヵ所、浜脇村の2ヵ所に過ぎず、21軒の宿が温泉を付帯していたとは認めがたい。なお湯株は「ゆかぶ」と言う読み方と、「ゆやど」と言う読み方がある。
絵葉書は元庄屋の米屋旅館の浴室。
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by b8spa | 2011-06-10 00:53 | 別府八湯の歴史

湯株(歴史)

a0212770_0512352.jpg『別府町史』(別府町1914)によると、文化年間(1804~1818年)の別府村には湯株と称される21軒の旅館が成立していた。しかしその出典は未詳で正確な情報とはいえない。具体的には以下の通りとなる。
湯株保有者18戸として府内屋太郎兵衛、中津屋勘兵衛、天満屋三郎兵衛、伊豫屋利右衛門、三佐屋七郎右衛門、延岡屋孫之丞、田中屋茂兵衛、杵築屋平兵衛、竹田屋喜右衛門、角屋源左衛門、上角屋太兵衛、豊前屋兵左衛門、植田屋源右衛門、植田屋次郎兵衛、国東屋九左衛門、布屋平之丞、小倉屋勘右衛門、伊勢屋孫左衛門。
新株取得者3戸として竹田屋九兵衛、中津屋清右衛門、角屋六左衛門。
新株取得者の屋号は既存のものと同じであり、分家又は暖簾分けと思われる。
さらに屋号だが、色々な意味を持ち合わせている。
具体的には、
(1)経営者がその土地の出身者が多い
(2)宿泊者にその土地の出身者が多い
(3)その他
である。
筆者は(1)の立場をとるものである。その理由としては明治以降に開業した旅館の経営者は自分の郷里の地名を屋号に付ける傾向にあるからである。湯株21軒の内訳をみると、屋号に地名を用いるケースが目立つ。その範囲は多岐に渡っており、近くは府内(現在の大分市)や杵築、遠くは伊豫や伊勢に至っている。
参考文献(別府町(1914)『別府町史』別府町)
写真は天満屋の広告(佐藤蔵太郎(1909):『別府温泉誌』武田新聞舗)
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by b8spa | 2011-06-10 00:51 | 別府八湯の歴史

貝原益軒(歴史)

a0212770_0482758.jpg1694(元禄7)年4月に別府を訪問した貝原益軒はその成果として『豊国紀行』(1694)を著し、その中で「民家100軒ばかり、宅中に温泉10ヶ所あり、何れもきよし、庄屋の宅中にあるは殊にいさぎよし」と記し、さらに「町中に川あり、東に流る、この川に温泉湧出す、その下流に里の男女浴す、又海中にも出ず、潮干ぬれば浴する者多し、塩温なれば殊によく病を治すという」と記載している。
この「宅中に温泉10ヶ所あり」と言う記載には意味がある。つまり別府の宿に内湯があったと推定できよう。内湯は明治以降に登場した入湯システムで、こうした内湯の存在は珍しい形態となろう。また海浜砂湯についても触れており、大変貴重な文献と言える。
参考文献(入江秀利(2001):『天領横灘ものがたり-別府の江戸時代-』おおくま書店)
絵は貝原益軒。
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by b8spa | 2011-06-10 00:47 | 別府八湯の歴史

江戸時代の入湯(歴史)

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17世紀後半、元禄年間(1688~1703年)において別府地域の大半が幕府の直轄領となった。大分高松代官が支配して入湯は幕府の許可を必要とした。従って自由な入湯は制限され、近在の村からでも頻繁な入湯は出来ない状態であった。その許可は町村ごとに月1回に限られ、城下町では武家・町家各1戸、農村では1戸のみとされた。これは陸路による入湯客の決まりで、海路の場合、定期船以外の入湯客は1ヵ町村1艘の許可であった。1艘当りは50人、60人の乗客があった。しかし入湯船の湯治客は湯株(宿)での宿泊は許可されず、船での宿泊を義務づけられた。中には船に寝泊りして湯治を行う人々もいて、こうした湯治船のシステムは明治、大正、昭和戦前まで受け継がれ、戦後は大分県南部の臼杵や佐伯方面などからやってきて、滞在期間は1週間程度であった。
参考文献(大分県地方史研究会(1957):『 別府の歴史』大分県地方史研究会)
写真は別府港の船だまり。
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by b8spa | 2011-06-10 00:45 | 別府八湯の歴史

元寇(歴史)

a0212770_0421297.jpg鎌倉時代では、1274(文永11)年の文永の役、1281(弘安4)年の弘安の役などの元寇で負傷した兵士が楠温泉などで湯治した伝説も残されている。
写真は楠温泉の絵葉書。大きな楠木が浴舎の裏側に見える。
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by b8spa | 2011-06-10 00:42 | 別府八湯の歴史

大友館(歴史)

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1196(建久7)年には豊後守護大名大友能直(よしなお)の一族が浜脇に上陸し、その後400年間に亘って一帯を支配することになった。浜脇では小高い台地の上に大友館が造られ、大友宗麟が浜脇温泉に入湯したという伝説が残されている。しかし大友方は1600(慶長5)年の石垣原の合戦で徳川方に敗北して没落したのである。
参考文献 大分県地方史研究会(1957):『 別府の歴史』大分県地方史研究会
写真は浜脇公園(大友館の跡)。
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by b8spa | 2011-06-10 00:40 | 別府八湯の歴史

別府村の成立(歴史)

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別府地域の呼称は速見郡敵見郷すなわちアダミ郷(アタミ、熱海)と呼ばれ、温泉湧出を物語っている。この地名が平安時代に朝見郷となった。その後、宇佐神宮の荘園に属して竃(かまど)荘、石垣荘、朝見郷に分れ、さらに石垣荘の南部が新たに開墾されて本荘の官省符とは別の免符を受けた別符、つまり平安末期頃に別府が成立したのである。
※写真は宇佐神宮の国宝本殿八幡造り。
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by b8spa | 2011-06-10 00:37 | 別府八湯の歴史

伊予風土記(歴史)

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伊予風土記は別府温泉の古称である速見の湯の存在を指摘している。道後温泉の成立の話として道後の湯は大穴持命(おおあなもちのみこと)(大国主命) が宿奈毘古那命(スクナビコナノミコト)(少彦名命)を蘇生させるため、下樋(しもとい)を通して速見の湯をもたらし、この湯に宿奈毘古那命を浸して生き返らせたという話である。
伝説的な物語に過ぎないが、速見の湯という温泉の存在は明らかになっている。
※写真は道後温泉の玉の石。大国主命と少彦名命が出雲から伊予へと旅していたところ、長旅の疲れからか少彦名命が急病になった。大国主命は小彦名命を手のひらに載せて温泉に浸し温めたところ、たちまち元気を取り戻した。治癒した少彦名命は喜んで石の上で踊りだしたという。その石が玉の石と言われる。道後温泉本館の北側に奉られている。
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by b8spa | 2011-06-10 00:35 | 別府八湯の歴史