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カテゴリ:別府八湯の歴史( 50 )

別府八湯の歴史(豊後州速見郡濱湧温泉場賑之図)(2015年07月29日)

別府八湯の歴史
豊後州速見郡濱湧温泉場賑之図

豊後州速見郡濱湧温泉場賑之図は、当時の浜脇温泉の繁盛ぶりが良くわかる図。現在、別府市美術館で所蔵。(1枚・41cm×62cm)。
1881(明治14)年に発行。
大勢の入浴客や来街者、人力車などが描かれている。
温泉は、東湯と西湯があって、前者は弦月泉、後者は清華泉となる。
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by b8spa | 2015-07-29 13:45 | 別府八湯の歴史

別府八湯の歴史(歴史書・図版・人物)(2015年07月28日)

別府八湯の歴史
歴史書・図版・人物

①豊後風土記(奈良時代初期に編纂)赤湯の泉(赤湯泉)(現在の血の池地獄)、玖倍理(くべり)湯の井の記載。

②伊予風土記(奈良時代初期に編纂):大国主命と少彦名命。

③柴石温泉:895(寛平7)に醍醐天皇、1044(長久5)年に後冷泉天皇が病気療養のため湯治。

大友家:大友能直(ただなお)。初代として浜脇に上陸したと言われる。

大友頼泰(よりやす)。元寇、つまり1274(文永11)年の文永の役、1281(弘安)年の公安の役で活躍。

大友宗麟(大友義鎮)(よししげ)二階崩れの変(1550・天文19)2月)の際、浜脇に滞在。

⑤一遍上人(時宗):鉄輪蒸し湯。鎌倉時代の1276(建治2)年に開設と言われる。1277(建治3年)説あり。

⑥豊国紀行:貝原益軒。1694(元禄)7年発行。

⑦伊能忠敬:九州測量のため別府を訪れる。1810(文化7)年。翌年も来別。現在の千葉県九十九里町生まれ。佐原(さわら)の酒造家伊能家の婿養子となる。

⑧鶴見七湯廼記:森藩久留島領の照湯惣図。江戸末期。

⑨流川下繁盛の図:荒金儀八郎。1862(文久2)

井上馨:1865(慶応元)年、別府で湯治若松屋旅館の離れの2階で潜伏。楠温泉入湯。

豊後州速見郡濱湧温泉場賑之図:1881(明治14)年。

⑫豊後國別府驛温宗並波戸場一覧圖:明治中期頃発行。

⑬伊藤博文:日名子旅館で病のため湯治する。1893(明治26)

⑭ベルツ博士来別:1899(明治32)年。ドイツ人医師。

⑮豊後有名竹瓦温泉及二條泉之図:旅館森屋発行 1911(明治44)

⑯ポール・クロデール:駐日大使を務めたフランスの外交官。詩人。1924(大正13)年と1926(大正15)来別。


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by b8spa | 2015-07-28 16:40 | 別府八湯の歴史

別府八湯の歴史(豊後國別府驛温宗並波戸場一覧圖)(2015年07月28日

別府八湯の歴史
豊後國別府驛温宗並波戸場一覧圖

「豊後国別府駅温泉並波止場一覧図」
明治中頃の発行と言われている。
その内容、構成、色調などは見事である。
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この他に「豊後州速見郡濱湧温泉場賑之図」がある。この図は当時の浜脇温泉の繁盛ぶりが良くわかる図。
現在、別府市美術館で所蔵。(1枚・41cm×62cm)。
1881(明治14)年に発行。

大勢の入浴客や来街者、人力車などが描かれている。

温泉は、東湯と西湯があって、前者は弦月泉、後者は清華泉となる。
(図を発見次第アップします)





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by b8spa | 2015-07-28 12:51 | 別府八湯の歴史

別府八湯の歴史(照湯惣図)(2015年07月27日

別府八湯の歴史
照湯惣図

1830(天保元)年、所領(森藩久留島領)巡検に来た藩主久留島通嘉は、祓川の川岸の温泉場の興廃を嘆いて、大庄屋・直江雄八郎重枝と庄屋・佐藤忠左衛門などに命じて、祓川左岸の照湯の地に、浴場・お茶屋・湯滝・築山・庭園などを造営させた。

『鶴見七湯廼記』は、森藩久留島領の幕末の別府温泉景観を知ることができる貴重な史料である。
絵図は、照湯惣図と照湯。

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by b8spa | 2015-07-27 19:12 | 別府八湯の歴史

別府三勝(2012年07月06日)

1930(昭和5)に、別府三勝(べっぷさんしょう)が選ばれた。
いわるゆ景勝地で、次の通り。

仏崎、志高湖、内山渓谷

いまとなっては、志高湖が三勝の中で一番かもしれない。

ところで、名勝は「めいかつ」ではなく、「めいしょう」と読みます。
学生時代に観光地理学を専攻した学生が「めいかつ」と読んで、一同苦笑しました。
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by b8spa | 2012-07-06 18:21 | 別府八湯の歴史

明治末期の温泉行政(歴史)

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1966年の『別府温泉の実態』によると、大分県は、1912(明治45)年6月5日、大分県訓令32号で、鉱泉取締規制を設け、泉源の保護対策を開始した。別府においては、1906(明治39)年4月、別府と浜脇の両町が合併し、新しい別府町が誕生した。そこで1909(明治42)年には、別府町上等温泉取締規定、入湯入待遇方法、海岸砂湯管理規程を公布し、不老泉、浜脇西温泉の上等温泉は有料の町営温泉となった。この条例は温泉利用に仕方を明示したものである。その際、温泉事務員を設置し、温泉行政の嚆矢となった。
1911(明治44)年には温泉課を新設し、助役がこれを兼務し、温泉の管理や観光宣伝に力を注いだのである。1918(大正7)年には別府町温泉調査会を設置し、温泉資源の調査を開始した。
1924(大正13)年、別府町が別府市となって、専任の温泉課長を置き、温泉係と補勝係(現在の観光係)に区分したのである。1936(昭和11)年になると、観光係を観光課に分離し、温泉課は温泉行政に専念することになった。
絵葉書は浜脇西温泉。
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by b8spa | 2011-06-10 23:47 | 別府八湯の歴史

別府湾を中心とせる郷土研究(歴史)

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大分縣師範学校郷土室(1934)の『別府湾を中心とせる郷土研究』によると、1932 (昭和7) 年11月現在の孔数(井泉台帳数)は、全体で2,482孔(出典文献では2,536孔)を数え、1.57倍の増加率を示す。市町村別で孔数をみると、別府市1,228孔、亀川町523孔、朝日村375孔、石垣村356孔、構成比では、それぞれ49.5%、21.1%、15.1%、14.3%を示し、別府・浜脇の占める割合は49.5%と5割を切っている。
1923年と比較すると、別府市(別府・浜脇)1.05倍、亀川町1.48倍、朝日村(明礬・鉄輪)8.72倍、石垣村(観海寺・堀田)29.67倍となり、別府・浜脇を除く、周辺部の町村において温泉開発が著しいことが分かる。しかし、湧出口数(利用源泉数)をみると、全体では1,162孔を示し、市町村別では、別府市840孔、亀川町125孔、朝日村141孔、石垣村56孔となり、それぞれ構成比は52.5%、10.8%、12.1%、4.8%を示し、石垣村(観海寺・堀田)は少ない。
絵葉書は浜脇東温泉。
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by b8spa | 2011-06-10 23:44 | 別府八湯の歴史

全国温泉鉱泉ニ関スル調査(歴史)

a0212770_23421723.jpg内務省衛生局(1923)の『全国温泉鉱泉ニ関スル調査』によると、1923(大正12)年現在、別府温泉郷の源泉数は1,584孔を数える。地区別では、別府・浜脇1,175孔、亀川354孔、鉄輪15孔、明礬28孔、観海寺12孔、堀田0孔となる。堀田は、同じ石垣村に位置する観海寺温泉に含まれていると推定する。構成比をみると、別府市(別府・浜脇)74.2%、亀川町22.3%、朝日村(鉄輪・明礬)2.7%、石垣村(観海寺・堀田)0.8%を示し、別府・浜脇で全体の7割強を占めていることが分かる。
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by b8spa | 2011-06-10 23:42 | 別府八湯の歴史

明治末期の温泉分布(歴史)

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図は1905(明治38)年2月現在における別府温泉(別府、浜脇)における源泉の分布状況を示したものである。鉱山監督官である松田繁が大分県知事に提出した報告書『別府濱脇町鉱泉ニ関スル取調書類』(1905)に掲載された内容である。
1905年現在の源泉数は198ヵ所(孔)を数え、地域別では、別府166孔、浜脇32孔を示す。源泉の内訳は、穿湯173孔、掘湯25孔となる。穿湯とは上総掘りのことである。この書類によると、1882年(明治15)の掘削が一番古く、当時の別府の豪商である「たばこ屋」主人の荒金猪六が掘削している。
分布状況をみると、源泉は流川沿いと旧国道沿いに分布している。旅館、商店、自宅などで掘削したケースが多いといえよう。その後、別府では温泉掘削の乱開発が進展した。その結果、1911(明治44)年現在、源泉の数は593孔を数えるに至った。所有形態の内訳は、町有源泉24孔、私有源泉569孔となる。1905(明治38)年が198孔を数えており、従って、6年間で371孔、1年平均で61.8孔の源泉が掘削された計算になる。こうした上総掘りの導入で、旅館では内湯を完備するところが続出したのである。
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by b8spa | 2011-06-10 23:40 | 別府八湯の歴史

日本鉱泉誌(歴史)

a0212770_23374991.jpg『日本鉱泉誌』(1886年)によると、大分縣豊後国の項で、次のような記載がある。( )内は筆者が追記したものである。別府村別府鉱泉として、楠湯、不老ノ湯(不老泉)、長石ノ湯(永石温泉)、中津屋ノ湯(中津屋旅館)、野田湯(田の湯温泉)、浴客1万630人(平均1ヵ年、以下同じ)、濱脇村濱脇温泉として、東温泉、西温泉、逆旅(旅館)40余戸、浴客1万1,340人、南立石村観海寺鉱泉として、客舎10余戸、浴客3,219人、南立石村上ノ田鉱泉として、浴客未詳、南立石村堀田鉱泉として、逆旅11戸、浴客3,176人、鉄輪村鉄輪鉱泉として、渋ノ湯、熱ノ湯、浴客8,000人、野田村柴石温泉として、逆旅2戸、浴客800人、野田村湯ノ森鉱泉として、御夢想ノ湯と称す、亀川村蕩耶鉱泉として、客舎13戸、亀川村平田鉱泉として、浴客3,500人、鶴見村地蔵鉱泉として、客舎7戸、浴客2,600人、などの記載がある。
別府村では、旅館の不記入、温泉施設の調査不足もあって、正確なデータとは言えないが、現在の別府温泉郷の範囲では、おおよそ4万3,000人程度(1年間)の入浴客があったと推定できよう。明治中期までの別府温泉郷は、共同湯を中心として温泉集落が成立していたが、近在の農民などを対象とした湯治場の段階に留まっていたのである。
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by b8spa | 2011-06-10 23:37 | 別府八湯の歴史