2011年 06月 10日 ( 26 )

明治末期の温泉行政(歴史)

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1966年の『別府温泉の実態』によると、大分県は、1912(明治45)年6月5日、大分県訓令32号で、鉱泉取締規制を設け、泉源の保護対策を開始した。別府においては、1906(明治39)年4月、別府と浜脇の両町が合併し、新しい別府町が誕生した。そこで1909(明治42)年には、別府町上等温泉取締規定、入湯入待遇方法、海岸砂湯管理規程を公布し、不老泉、浜脇西温泉の上等温泉は有料の町営温泉となった。この条例は温泉利用に仕方を明示したものである。その際、温泉事務員を設置し、温泉行政の嚆矢となった。
1911(明治44)年には温泉課を新設し、助役がこれを兼務し、温泉の管理や観光宣伝に力を注いだのである。1918(大正7)年には別府町温泉調査会を設置し、温泉資源の調査を開始した。
1924(大正13)年、別府町が別府市となって、専任の温泉課長を置き、温泉係と補勝係(現在の観光係)に区分したのである。1936(昭和11)年になると、観光係を観光課に分離し、温泉課は温泉行政に専念することになった。
絵葉書は浜脇西温泉。
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by b8spa | 2011-06-10 23:47 | 別府八湯の歴史

別府湾を中心とせる郷土研究(歴史)

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大分縣師範学校郷土室(1934)の『別府湾を中心とせる郷土研究』によると、1932 (昭和7) 年11月現在の孔数(井泉台帳数)は、全体で2,482孔(出典文献では2,536孔)を数え、1.57倍の増加率を示す。市町村別で孔数をみると、別府市1,228孔、亀川町523孔、朝日村375孔、石垣村356孔、構成比では、それぞれ49.5%、21.1%、15.1%、14.3%を示し、別府・浜脇の占める割合は49.5%と5割を切っている。
1923年と比較すると、別府市(別府・浜脇)1.05倍、亀川町1.48倍、朝日村(明礬・鉄輪)8.72倍、石垣村(観海寺・堀田)29.67倍となり、別府・浜脇を除く、周辺部の町村において温泉開発が著しいことが分かる。しかし、湧出口数(利用源泉数)をみると、全体では1,162孔を示し、市町村別では、別府市840孔、亀川町125孔、朝日村141孔、石垣村56孔となり、それぞれ構成比は52.5%、10.8%、12.1%、4.8%を示し、石垣村(観海寺・堀田)は少ない。
絵葉書は浜脇東温泉。
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by b8spa | 2011-06-10 23:44 | 別府八湯の歴史

全国温泉鉱泉ニ関スル調査(歴史)

a0212770_23421723.jpg内務省衛生局(1923)の『全国温泉鉱泉ニ関スル調査』によると、1923(大正12)年現在、別府温泉郷の源泉数は1,584孔を数える。地区別では、別府・浜脇1,175孔、亀川354孔、鉄輪15孔、明礬28孔、観海寺12孔、堀田0孔となる。堀田は、同じ石垣村に位置する観海寺温泉に含まれていると推定する。構成比をみると、別府市(別府・浜脇)74.2%、亀川町22.3%、朝日村(鉄輪・明礬)2.7%、石垣村(観海寺・堀田)0.8%を示し、別府・浜脇で全体の7割強を占めていることが分かる。
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by b8spa | 2011-06-10 23:42 | 別府八湯の歴史

明治末期の温泉分布(歴史)

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図は1905(明治38)年2月現在における別府温泉(別府、浜脇)における源泉の分布状況を示したものである。鉱山監督官である松田繁が大分県知事に提出した報告書『別府濱脇町鉱泉ニ関スル取調書類』(1905)に掲載された内容である。
1905年現在の源泉数は198ヵ所(孔)を数え、地域別では、別府166孔、浜脇32孔を示す。源泉の内訳は、穿湯173孔、掘湯25孔となる。穿湯とは上総掘りのことである。この書類によると、1882年(明治15)の掘削が一番古く、当時の別府の豪商である「たばこ屋」主人の荒金猪六が掘削している。
分布状況をみると、源泉は流川沿いと旧国道沿いに分布している。旅館、商店、自宅などで掘削したケースが多いといえよう。その後、別府では温泉掘削の乱開発が進展した。その結果、1911(明治44)年現在、源泉の数は593孔を数えるに至った。所有形態の内訳は、町有源泉24孔、私有源泉569孔となる。1905(明治38)年が198孔を数えており、従って、6年間で371孔、1年平均で61.8孔の源泉が掘削された計算になる。こうした上総掘りの導入で、旅館では内湯を完備するところが続出したのである。
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by b8spa | 2011-06-10 23:40 | 別府八湯の歴史

日本鉱泉誌(歴史)

a0212770_23374991.jpg『日本鉱泉誌』(1886年)によると、大分縣豊後国の項で、次のような記載がある。( )内は筆者が追記したものである。別府村別府鉱泉として、楠湯、不老ノ湯(不老泉)、長石ノ湯(永石温泉)、中津屋ノ湯(中津屋旅館)、野田湯(田の湯温泉)、浴客1万630人(平均1ヵ年、以下同じ)、濱脇村濱脇温泉として、東温泉、西温泉、逆旅(旅館)40余戸、浴客1万1,340人、南立石村観海寺鉱泉として、客舎10余戸、浴客3,219人、南立石村上ノ田鉱泉として、浴客未詳、南立石村堀田鉱泉として、逆旅11戸、浴客3,176人、鉄輪村鉄輪鉱泉として、渋ノ湯、熱ノ湯、浴客8,000人、野田村柴石温泉として、逆旅2戸、浴客800人、野田村湯ノ森鉱泉として、御夢想ノ湯と称す、亀川村蕩耶鉱泉として、客舎13戸、亀川村平田鉱泉として、浴客3,500人、鶴見村地蔵鉱泉として、客舎7戸、浴客2,600人、などの記載がある。
別府村では、旅館の不記入、温泉施設の調査不足もあって、正確なデータとは言えないが、現在の別府温泉郷の範囲では、おおよそ4万3,000人程度(1年間)の入浴客があったと推定できよう。明治中期までの別府温泉郷は、共同湯を中心として温泉集落が成立していたが、近在の農民などを対象とした湯治場の段階に留まっていたのである。
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by b8spa | 2011-06-10 23:37 | 別府八湯の歴史

上総掘り(歴史)

明治期における
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掘削ブームの背景には、新しい温泉掘削技術の導入があげられよう。明治中期まで、別府の温泉は、自然のままの温泉(自然湧出)か道具で掘った掘湯による湧出のみで、その後、上総掘りと言われる竹のバネを使った人工掘削技術の導入によって、源泉数が急増することになった。上総掘りの時期ついては、1879(明治12)年説、1889(明治22)年説など諸説がある。
写真は上総掘り様子。
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by b8spa | 2011-06-10 23:35 | 別府八湯の歴史

明治期の温泉施設の整備(歴史)

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別府町(1914)『別府町史』によると、1868(明治初)年の温泉場として、別府村には、楠湯、玉湯(新湯)、握石湯(永石温泉)、紙屋湯、風呂湯(不老湯)、佐伯屋湯(甲斐元太郎邸内)、會所湯(日名子益太郎邸内)、田中湯(畦無温泉)、泥湯(現今廃絶)の9ヵ所、浜脇村には、東温泉、西温泉の2ヵ所があったと記載されている。しかし、その詳細は不明である。
その後、1874(明治7)年には、県費によって不老泉、紙屋温泉、浜脇東温泉などが新築された。こうした温泉施設の新築を契機として、その後、共同湯の新築や改築などが相次いだ。具体的には、新規開業では、1892(明治25)年の霊潮泉、1899(明治32)年の寿温泉、1909(明治42)年の柳温泉など、改築(新築を含む)では、1902(明治35)年の不老泉、同年の竹瓦温泉などで、明治中期以降、共同湯を中心に温泉集落の整備が進むことになった。
絵葉書は霊潮泉。
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by b8spa | 2011-06-10 23:33 | 別府八湯の歴史

明治末期の竹瓦温泉界隈の様子(歴史)

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図は竹瓦温泉界隈の様子を描いた地図である。竹瓦温泉そして二條泉界隈で旅館の成立がみられる。海岸通りはいまだ開通しておらず、したがって、旅館の進出もわずかである。しかし、旅館の別館としての別荘が作られており、こうした別荘形式の別館が以後増えることになった。
1904(明治37)年から1905年までの日露戦争後、別府に新しい発展の芽をもたらした。福岡連隊が負傷者の療養の場を別府に求め、不老町の不老園などの旅館を借り上げ、負傷兵を送り込んだのである。戦後の好景気もあって、別府の名声は高まり、急速に発展をみることになった。

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by b8spa | 2011-06-10 23:30 | 別府八湯の歴史

明治末期の別府市街地(歴史)

図はa0212770_23274327.jpg明治末期における別府市街地の形態と旅館の分布を示したものである。集落は、南北に伸びる旧街道(小倉街道)沿いと海岸に近い浜堤防上に展開し、その他は水田が一面に広がっていた。別府温泉の旅館は別府港に近接した流川下流域と海岸部、共同湯周辺に立地している。浜脇温泉の旅館は、東温泉、西温泉を取り巻くように立地しており、海岸部への進出は見られない。
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by b8spa | 2011-06-10 23:27 | 別府八湯の歴史

明治末期の別府八湯(歴史)

a0212770_1155091.jpg図は明治末期の別府温泉郷の位置図である。別府、浜脇、亀川はすでに温泉集落を形成し、柴石、明礬、鉄輪、堀田、観海寺には温泉のマークが記載されている。地図に記載された主な地名をみると、地獄は血の池地獄、海地獄、坊主地獄、神社は竈八幡神社、火男火女神社、八幡朝見神社、その他には鶴見岳、大平山、実相寺山、乙原滝、鮎返滝、境川、志高池、別府湾、農学校などがある。八湯以外の地名としては、平田、北石垣、南石垣があって、亀川には、新湯の温泉マークがプロットされている。空白の部分は水田と思われるが、明治末期の別府温泉郷は、別府と浜脇を除いて、それぞれ独立した温泉地を形成したのである。
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by b8spa | 2011-06-10 01:15 | 別府八湯の歴史