2011年 06月 05日 ( 12 )

温泉番付(歴史)

a0212770_2051466.jpg江戸後期の温泉番付によると、浜脇は西前頭3枚目に位置し、瘡毒に吉、別府は前頭6枚目に位置し、眼病に吉とある。東の大関は上州草津の湯、関脇は野州那須の湯、小結諏訪の湯、前頭は豆州足の湯、以下、陸奥嶽の湯、上州伊香保の湯、仙台成子の湯、最上高湯の泉、秋田河内原の湯と続く。これに対して、西の大関は播州有馬の湯、関脇但州木の崎の湯、小結豫州どふごの湯、前頭加州山中の湯、以下、肥後阿蘇の湯、豊後濱脇の湯、肥前温泉の湯、薩摩霧島の湯、豊後別府の湯、肥後山鹿の湯となる(以下省略)。
なお、行司は熊野本宮之湯、伊豆熱海之湯、津軽大鰐之湯、差添人は上州さわとの湯、勧進元は紀伊熊野新宮之湯である。諸国温泉功能鑑とあるように、温泉の効能(現在の適応症)を主としたランキングと思われるが、浜脇は西前頭3枚目、別府は同6枚目として登場している。九州の温泉ではこの他に肥後阿蘇(西前頭2枚目)、肥前温泉の湯(西前頭4枚目)、肥後山鹿の湯(西前頭7枚目)だけで、特に浜脇温泉の地位が高い。浜脇は漁港、朝見神社の門前町として栄え、花柳街(貸席)などもあって格は別府よりも上であった。
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by b8spa | 2011-06-05 20:51 | 別府八湯の歴史

岡本屋(温泉旅館)

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明礬温泉の岡本屋は、明礬温泉を代表する老舗の温泉旅館だ。創業は1877(明治10)年。隣のゑびすや旅館が自称1875(明治8)年の創業で、ゑびすや旅館の方が古い訳だが、岡本屋の場合は便宜的に明治10年を創業年にしたらしい。岡本屋を経営する岩瀬家は、森藩の明礬山の山奉行であり、屋号は出身地である岡本村(現在の竹田市の一部?)の岡本である。そういえば、鶴寿泉近くの山田屋は、山田村(現在の玖珠か森町?)の出身だから、この屋号らしい。ちなみに江戸時代の山田屋は、岡本屋のもとで働いていたとか(簡単に言えば、家来?)。山田屋の創業は、自称、1830~1843年(天保年間)とのことだが、創業なのか、明礬へ来た年なのか、定かではない。事実なら別府八湯では、現存する旅館では一番古い旅館となる。
写真は岡本屋の男性用の露天風呂。以前は混浴だったが、某女流作家から注文(文句)をつけられて、柵をつけた次第。柵の向こうが女性専用の露天風呂となる。男湯に女性は入浴しても良い。
注:最近、岡本屋は創業を1875(明治8)年としている。
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by b8spa | 2011-06-05 20:48 | 別府八湯の産業

照湯(温泉)

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明礬温泉の照湯は、森藩が江戸末期に開発した温泉施設である。江戸時代の明礬地区は、明礬の鉱山として知られ、平田川の左岸が幕府領、右岸が森藩の飛び地であった。そんな関係で、殿様が祓川(春木川の上流)の左岸で温泉の開発を行ったと想定できよう。当時は、滝湯などもあって、総合的な温泉施設だったらしい。しかし、河川の氾濫で復元は行われず、明治期以降は、地元専用の共同浴場として長く利用された。温泉施設は、2004年になって、現在の形態で新築が行われ、一般に開放された訳だが、石畳、湯船など、風情ある遺構は雰囲気を変えてしまった。現在でも、湯守りの方が近くに住んでいるとか。(写真は当時の街道(えんま坂)。右手に温泉施設がある)

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玄関右手・殿様の湯の湯船の周辺が江戸末期とされ、別府市の文化財に指定されている。新築前は、それらしい感じだったが、いまは場所も移動した関係で、少しだけ雰囲気を残している感じだ。
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by b8spa | 2011-06-05 20:46 | 別府八湯の温泉

別府港(歴史)

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明治維新となって別府温泉郷は顕著な変容をとげることになった。日田県知事松方正義は別府の視察を行い、新別府港の必要性を説いた。1871(明治4)年5月、4万円もの県費をかけて別府湾に面する流川河口付近の楠浜で近代的な別府港が竣工し、海路による交通が一段と利便性を増した。港湾整備に関しては、別府の有力者がかり出された。具体的な屋号と氏名は、府内屋・日名子太郎兵衛、米屋・堀清左衛門、紀野屋・金居與助、讃岐屋・日名子長左衛門、萬屋・神澤儀助、若松屋・松尾彦七などである。
写真は、ゆめタウンの開発前のもの。
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by b8spa | 2011-06-05 20:42 | 別府八湯の歴史

若木屋(歴史)

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若木屋は、別府の北浜を代表する網元と言われる。明治から大正にかけて、兵網の鶴田家と並ぶ網元で、竹瓦温泉の場所はほとんど若木屋のイリコ小屋だったとのこと。
若木屋の家系は、武士の出で、西国各地を転々とした後、豊後白木浦(現在の別大国道の白木)に上陸して大友家に仕え、その後、別府の港町で網元を始めたと言う。先祖の佐藤勘左衛門尉藤原勝信という人は、大友の武将の1人として朝鮮出兵で軍功があり、1595(文録4)年1月2日、豊臣秀吉から感謝状をもらったとか。網元としての船名は若木丸。 (別府今昔による)
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by b8spa | 2011-06-05 20:38 | 別府八湯の歴史

秋葉神社(歴史)

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秋葉神社の北側を通る路地は「どい」と呼ばれ、江戸時代から続く旧秋葉通りである。この付近は交通の要地で、馬宿もあったとか。角地に建つタナベヤこと西原家(元は呉服荒物店)は1877(明治10)年に進出したとか。その前は松原で居を構えていたらしい。
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by b8spa | 2011-06-05 20:36 | 別府八湯の歴史

秋葉神社(歴史)

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秋葉神社の勧請は、1725(享保10)年とか1764(明和元)年とのこと。しかし案内版には1725(享保10)年とある。境内には1732(享保17)年奉納の手水鉢が残されている。
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by b8spa | 2011-06-05 20:32 | 別府八湯の歴史

木屋(歴史)

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紙屋温泉の近く、南町の旧国道沿いのたばこ店・河村家の屋号は木屋と言う。何と1700(元禄13)年に本家の小松屋から分家したとのこと。そういえば、屋敷は短冊状で細長い。旧家の証だ。
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by b8spa | 2011-06-05 20:29 | 別府八湯の歴史

小松屋(歴史)

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小松屋は、たばこ屋同様に南町で門を構えた別府を代表する素封家だ。江戸時代に大阪から来別し、祖先は河村水軍とのこと。七島イの売買で財をなし、全盛期には堀田でも広大な土地を所有したとか。しかし昭和初期の恐慌で財産の大半を失った。
歌人である丸山待子(1893-1941年)は、29歳で夫と死別後、実家である小松屋へ戻り、1928(昭和3)年に浅利良道などと共に「大分歌人」を創刊した。野口雨情、与謝野晶子なども訪れ、小松屋は文化サロンとして機能した。
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by b8spa | 2011-06-05 20:26 | 別府八湯の歴史

たばこ屋(歴史)

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別府村の豪商と言えば、たばこ屋 (漢字はワープロにないので省略)だ。南町の現在の児童館一帯に広大な屋敷を構え、本宅には10畳以上の座敷が14室、書院3室、茶亭2室など、部屋の総数80室を数えたという。
たばこ屋の全盛時代は別府村の田畑の内、上等な地所のほとんどを所有し、稲作のほか七島イ、生姜畑など9割までを支配したという。しかし1923(大正12)年に倒産。(別府今昔による)
土地所有の話は、よく聞く話で、それくらい広大な土地を所有していたと言う例え話であろう。
たばこ屋の土地は、愛媛県からやってきた菊池家が所有したとのことだが、未確定情報である。
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by b8spa | 2011-06-05 20:23 | 別府八湯の歴史