別府港の築港に対して、別府の多くの素封家や有力者がかり出された。当時の別府の素封家や有力者は、いずれも小倉街道沿い、そして石垣村に近い野口、浜脇村に近い松原などに在住していた。別府港の完成によって、有力者の一部は、旅館経営に参入することになった。海運業の発展を見越して、近在からの有力者及び先住者が旅館経営に参入したのである。
大分県(1885)『豊後国速見郡村誌』は、1877年(明治10)前後の別府の様子を記した貴重な文献である。地区別の旅館数は別府40軒、浜脇30軒、亀川10軒(野田2軒、亀川8軒)、鉄輪34軒、鶴見10軒(明礬10軒)、南立石18軒(観海寺8軒、堀田10軒)で、現在の別府温泉郷では142軒を数える。同誌によれば、別府の貸席数は10軒、浜脇は4軒を示している。 絵葉書は日名子旅館。
by b8spa
| 2011-06-10 01:11
| 別府八湯の歴史
|
カテゴリ
以前の記事
2018年 07月 2017年 07月 2017年 06月 2017年 05月 2016年 08月 2016年 07月 2016年 04月 2015年 08月 2015年 07月 2015年 06月 2015年 04月 2014年 08月 2014年 07月 2014年 06月 2014年 04月 2013年 08月 2013年 07月 2013年 06月 2013年 05月 2012年 08月 2012年 07月 2012年 06月 2012年 05月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 フォロー中のブログ
メモ帳
検索
その他のジャンル
最新の記事
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
ファン申請 |
||