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別府港の築港(歴史)

別府港の築港(歴史)_a0212770_154339.jpg明治維新となって、別府温泉郷は、顕著な変容をとげることになった。日田県知事松方正義は、別府の視察を行い、新別府港の必要性を説いた。その後、1871(明治4)年5月30日、県費によって別府湾に面する流川河口付近の楠浜で近代的な別府港が竣工し、海路による交通が一段と利便性を増した。これは1870(明治3)年2月23日に起工したもので、工費は4万円を数えた。
港湾整備に関する功労者の氏名をみると、別府の有力者の大半が含まれていると推定されるが、旅館経営者として、次の氏名が指摘できよう。すなわち、府内屋・日名子太郎兵衛、米屋・堀清左衛門、紀野屋・金居與助、讃岐屋・日名子長左衛門、萬屋・神澤儀助、若松屋・松尾彦七などである。
1873(明治6)年5月30日には、大阪開商社の益丸が入港し、1ヵ月に1回寄港することになった。益丸は西洋型木造蒸気船(18トン)で、別府-大阪間を30日間要したと言われている。その際、別府では、船問屋を開業する者が登場した。別府村有数の素封家である府内屋(日名子旅館)の日名子太郎である。その後、1884(明治17)年5月に大阪商船(関西汽船の前身)、1885(明治18)年8月に宇和島運輸など、大手の海運会社が別府航路に参入し、貨物や乗客の取り扱いをすることになった。その結果、大阪、四国方面との結びつきが強化された。
その後、大阪商船は、1916(大正5)年、木造桟橋の建設によって汽船の発着を開始し、1920(大正9)年には、待合所やコンクリート固定棧橋を建設し、毎日の出航体制となった。さらに1929(昭和4)年には、菫丸を就航させて、昼夜2便体制を確立したのである。写真は松方正義。
※松方正義(1835(天保6)年2月25日~1924(大正13)年7月2日)、鹿児島生まれ。政治家、財政指導者、元老。父は鹿児島藩士。日田県知事、租税頭、大蔵大輔などを経て、1880(明治13)年、内務卿となる。1881年大隈重信が政変で追放されると、参議兼大蔵卿に就任し、緊縮財政を実施した。第1次伊藤、黒田、第1次山県、第2次伊藤、第2次山県各内閣の蔵相。この間、首相として2度組閣し、蔵相を兼任した。のち日本赤十字社社長、枢密顧問官、議定官、貴族院侯爵議員、内大臣を歴任。日本銀行の創立、金本位制度の確立など、財政指導者として功績を残す。元老としても重きをなした。
by b8spa | 2011-06-10 01:06 | 別府八湯の歴史
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