花柳界としての名残橋界隈(歴史)

a0212770_111233.jpg
江戸時代末期になると、流川の名残橋付近に旅館や貸座席などが登場したと推定できよう。1849(嘉永2)年には村用金で別府港を改築という記録があり、港町としての体裁を整えつつあった。流川は海岸から名残橋まで船が遡上しており、橋付近は船着場として機能していたのである。名残橋付近から楠湯付近かけての花柳街の成立は浜脇ですでに繁盛していた貸座席の影響が大きいと思われる。現在の楠銀天街の流川寄りに共同湯としての新湯が作られ、芸者衆が入湯していたと伝えられている。名残橋付近には柳の木が多く植えられ、情緒溢れる雰囲気を醸し出していたと想定できよう。
最初にどの旅館が進出したのか事実関係は不明だが、1865(慶応元)年1月に討幕運動に活躍した井上馨が若亀旅館(後の若松屋)に逗留し、傷を癒すために楠温泉に入湯したと言う記録が残されている。若亀は新湯の前、すなわち現在の流川通りからソルパセオ銀座の入口付近にかけて立地していたが、昭和初期の銀座通りの開通で取り壊されてしまった。
『別府今昔』(是永勉1966)によれば、松尾家は兵庫県加古川地方の一国一城の主で、江戸中期の後半に城を失って長男が別府に逃れ、弟が加古川に潜伏したと言われている。長男の子孫は別府で旅館と回槽店を経営し、落ち延びる際にかなりの家来を連れてきたと言われている。
参考文献(是永勉 (1966):『別府今昔』大分合同新聞社)
写真は菊家流川店の前にある名残橋の碑(レプリカ)。本物は某所で保管されている。
[PR]
by b8spa | 2011-06-10 01:01 | 別府八湯の歴史
<< 別府港の築港(歴史) 所用留(歴史) >>