江戸時代の入湯(歴史)

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17世紀後半、元禄年間(1688~1703年)において別府地域の大半が幕府の直轄領となった。大分高松代官が支配して入湯は幕府の許可を必要とした。従って自由な入湯は制限され、近在の村からでも頻繁な入湯は出来ない状態であった。その許可は町村ごとに月1回に限られ、城下町では武家・町家各1戸、農村では1戸のみとされた。これは陸路による入湯客の決まりで、海路の場合、定期船以外の入湯客は1ヵ町村1艘の許可であった。1艘当りは50人、60人の乗客があった。しかし入湯船の湯治客は湯株(宿)での宿泊は許可されず、船での宿泊を義務づけられた。中には船に寝泊りして湯治を行う人々もいて、こうした湯治船のシステムは明治、大正、昭和戦前まで受け継がれ、戦後は大分県南部の臼杵や佐伯方面などからやってきて、滞在期間は1週間程度であった。
参考文献(大分県地方史研究会(1957):『 別府の歴史』大分県地方史研究会)
写真は別府港の船だまり。
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by b8spa | 2011-06-10 00:45 | 別府八湯の歴史
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