この橋の架設年代は不明だが、おそらく江戸末期と推定できよう。当時の流川は、左岸に道路が走り、別府温泉で一番古いと言われる楠温泉へ行くために名残橋が架設されたと想像する。その理由は、別府の豪商・煙草屋主人の荒金義八郎が1862(文久2)年に書き記した『所用留』の「流川下流一帯見取り図」に記載されていないからだ。この地図には、下流に一箇所だけ橋が記載されている。場所は、現在の寿温泉付近である。 江戸末期の流川は、別府湾から名残橋付近まで船が遡上し、船溜りがあったらしい。川沿いには柳が植えられ、貸座席や旅籠などが成立し、花柳界の様相を呈していた。また名残橋の海寄りには新湯が開かれ、芸者衆が入浴したと言われている。温泉は引湯で、現在の流川4丁目にあった高札場の湯からの引湯である。この新湯はなぜ新湯というのか、分からない。高札場の湯に対する新湯なのか、楠温泉に対する新湯なのか、URAは楠温泉に対する新湯と想像する。この新湯もおそらく流川の拡幅の際に消えたと思う。 1871(明治4)年の別府港の築港で、流川の下流は船溜りとしての機能を失った。そのためか、明治末期以降の市区改正(耕地整理)の進行と共に、道路の整備が進み、海寄りに、すじかい(筋交)橋(現在の寿温泉の玄関先当たり)、柳橋などが架設された。 ちなみに、流川の流路は、現在、白水館の裏手に残されており、往時の流川の様子を見ることが出来る。
by b8spa
| 2011-06-04 18:17
| 別府八湯の歴史
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